
こんにちは。おひさしぶりのブログです。
くたびれる暑さの折、皆様丈夫にされていますでしょうか。
このところの私は晩夏の演奏会のためシューベルトに向き合う日々です。
個人的には古楽を学んでいる真っ最中でしたから、シューベルトの時代はとても新しく感じられ…こんなにも音の世界が違うものかと大変な気持で勉強に追われています。
ピッコリ・フィオーリの今シーズンを飾るドイツリートシリーズ。
ひとくちにドイツリートと云たところでその定義はひどく困難を極めます。
有節リート=ドイツリートと言い切れないあたりが、「じゃあドイツリート“らしさ”ってなんと定義づければいいの?」と専門の研究者すら悩ませてしまう。
たとえばモーツァルトの『野ばら』
たとえばシューベルトの『魔王』
これらもれっきとしたドイツリートなのですね。全然有節リートじゃないじゃん!となるわけです。
譜面を紐解いてよく眺めると、(あくまで個人的所感として)ドイツリートの大いなる特徴には“伴奏部の詩的な充実”が挙げられます。
餅つきで喩えると、餅をついているのはピアノ。水で濡れた手でさっと捏ねて入るのが歌…といった具合。
詩の世界を語るピアノに歌が言葉を添えているように見えます。
だから、ドイツリートはほんとうに、歌とピアノの信頼関係が大切なのです。表現を渡し合う信頼。
本企画第二弾で扱うシューベルトはドイツリートの代名詞的存在。『歌曲の王』とも呼ばれています。
シューベルト、音大時代にはもちろん通る道でしたが、専門として深く親しんだことはありませんでした。
今回たくさんのシューベルト作品を一挙に歌えるということで、その世界にどっぷり浸かり、かれが懇切丁寧に紡いだ音を感受しては泣いて歌えなくなり…を繰り返しています。
生真面目で優しい優しいシューベルト。真面目すぎてたまに意固地になっちゃうけれど、かれが音楽に表出させる心の脆さや美しさはおどろくほどに誠実です。
かれは詩の言葉の中に語られきれていない(もしくは便宜上で削除した詩の一部の)部分を緻密に配した和音でもって語り、それでいて敢えて完成させず余白で行間感を見せながら音楽を綴じていきます。
だから、シューベルトを聴いたあとは、“詩のその後”について考えてしまったり、連想される人や物事について想いを馳せてしまったり、とかくぼうっとしがちです。
シューベルトを歌うにはまずもってかれのまなざしを知ること。なかなか難しいですが、少しずつシューベルトの心を追って、自分なりの音楽にしていけたらと思います。
こんなふうに音楽を言葉で語ることは演奏家として禁忌なのかもしれませんが、
「クラシック音楽をどう聴いたらいいかわからない」という言葉をたびたびいただく中で、耳を育てるために差し出す言葉はひとつ大切かもしれないとも思い、未熟ながら筆を取ってみました。
9月16日、是非ご一緒に、シューベルトが紡いだ音楽を愛していただければと願っています。
それではまた。
Miku.